本番アルバム

2012年6月17日日曜日

子どもの遊び場

1950年代に小学校に入学した私ですが、その当時の記憶をたどっても児童館にお世話になった思い出がありません。


今では下町の風情さえも感じられる私鉄沿線の街で育ちました。

でも、遊びの記憶をたどると、友だちと原っぱの木の上に登ったり、根元に穴を掘ったり、「秘密基地ごっこ」に興じたり、建築現場の余った木片で作った船に紐を付け、都会のドブ川に浮かべて引っ張ったりして遊んでいました。

1964年の東京オリンピックに備えて建設が始まった環状7号線の工事現場に積み上げられていた土砂は格好の遊び場でした。

今はマンションが立ち並ぶ地域も当時は凧揚げに走り回った空き地でした。

あまり活発な子どもではなかった私ですが、それでも思い出してみると当時からアウトドア派だったようです。


記憶を巡らせてもその時の「遊び」に児童館はおろか大人の影も見えてきません。

当時は児童館は無かったのでしょうか、必要も無かったのでしょうか、それとも私の地域では無かったのでしょうか、はたまた私だけ知らなかっただけなのでしょうか。


それから半世紀たった今にして思えば、子どもが大人も交えて遊ぶのはうらやましくもあります。




今では独立した娘や息子たちも広島、長崎で過ごした子ども時代は地域の人たちのお世話になって育ってきました。


児童館へ通う機会を与えられた今、遊びの中に入っていきます。
(2011年11月の南大谷児童館にて)




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新卒1年目の井出くんと、定年間際の三島さん。


こんにちは、おとな船長です。
児童館はいつごろからあったのかな?と記事を読んで疑問に思い調べてみたら、1950年代には既にあったということが分かりました。こうやって疑問するきっかけに感謝!!


今回わたしが紹介する一枚の写真。
こちらは演劇の日の前日に、こっそりおとな船長と井出くん、三島さんの三人で打ち合わせした時に撮影したものです。


新卒と定年、対比するには使い勝手が良いのですが、いかんせん多くの意を含んだ言葉です、軽く捉えていただけたらと思います。


人と人との間には大きな隔たりがあります、年齢云々でなく、その人の個性によるものが多いですが、似たような性格であっても、生きた時代の違いで世代格差が生じることもありますよね。


私は障害者団体に勤めていますから、ノーマラーゼーションだなんだと機会の平等を訴える立場です、そんな中にいるからこそ、人と人との差異に気付かされることがあります。


児童館に行こう!となった時、お父さんとして生きてきた三島さんと
まだ児童館で公演をしたことがない、これからお父さんになるかもしれない井出くんと
紐の端と端にあるような人々が力を合わせ、作品をつくろうとしている姿勢こそ、フレフレ号の届けたい作品なのでしょう。端と端の人が押し合いへしあいしないと、紐は結ばれないんですね。
紐のまん中どうしでごちゃごちゃやっても、やっぱり紐は結べないですからね。


7月の「演劇の日」は、なんとこの井出くんがリーダーになって行います!
井出くんらしさに溢れた、良い一日になるよう、メンバー一同力を合わせて準備していますよ!


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